ひょっこりポンカン島

獅子が舞う石工とポンカンの里天草市下浦町

下浦さるくB 下浦石工の元祖、花岡大明神(五郎左衛門)を巡るコース(金焼・石場コース)

下浦さるくB
下浦石工の元祖、花岡大明神(五郎左衛門)を巡るコース(金焼・石場コース)
約4km

見どころ金焼地区について
金焼地区は天草市下浦町の南の端にあり、金焼港の入口に防波堤・小島・下血塚島を望み、風光明媚でインスタ映えする景色です。焼酎金焼のラベルにもなっています。
金焼の地名は、下浦石工の歴史とかかわりが深く、隣の石場地区では、下浦石という加工しやすい良質の砂岩が採出されていたことから「石場」に、金焼地区では、石を彫るためのノミが焼かれていたことから、「金焼」の地名になったといわれています。

金焼新田・津野新田(干拓):下浦町は干拓地が多く下浦町水田の約8割が干拓農地を占めています。1,660年から1,860年までの200年間、多くの干拓事業がありました。この金焼新田もその一つです。

志賀宮様:志賀宮は海を生業とする海人の守護神です。
天保9年、楠浦町に疱瘡が流行し、下浦町にも伝染、死者が出たと言われています。本郷~船場コースにある志賀宮様は、疱瘡の伝染を収めるために苦労した船場住人の近藤又右衛門によって、願成就のため建立したといわれており、金焼地区にある志賀宮様も同様の主旨で建立されたのではないかと考えられます。

石切丁場跡:この石切丁場は金焼地区の石工さんにより、近年まで使われていました。石材業が盛んだったころは、金焼周辺に多くの石切丁場がありました。

深浦新田:広さは約3反で、安政年間(1854年~)の金焼新田と同じ頃に完成しました。

石場地区について
下浦石工の元祖「松室五郎左衛門」翁が居住されていた地区で、石場という地名から、下浦石の最初の切り出し場所と思われます。
この地区のほとんどが、採石場跡地に民家が建ち、海岸から順番に山の方向へ広がっています。昔の海図には、石の積出港として、石場・船場の地名が残されています。
錦江湾(下浦湾)に浮かぶ上血塚島、下血塚島を望む石場地区からの景観は、まさに下浦町のシンボルともいえる絶景です

正一位稲荷神社:毎年旧暦の9月29日、社殿の中で祭りが行われています。階段は60段、健康保持のため階段を利用し昇降する人も見受けられます。

下浦石船積場:石場祇園様下の切り出し場から、搬出道(石場高速道路と呼ばれていたらしい)を利用し、積み込み場まで木馬で運んでいました。

松室五郎左衛門・花岡大明神道標、入口石碑:平成30年6月下浦ふるさと文化懇話会によって、石の道標が建立されました。

石工地蔵・切り出し場跡:石場地区市道脇にある採石場。
地蔵様は、当時の石工さんたちの安全祈願のためのものか、地蔵像彫刻崩れが転々とあり、当時としては大きな採石場であったことが考えられる場所です。

下浦石工の元祖松室五郎左衛門の墓:下浦石工の元祖松室五郎左衛門は、元肥前白石藩士で、宝暦10年頃天草下浦村石場に移り住み石工となりました。村人に石工の技術を教授し、当地の石工業の発展に寄与し、天明3年(1783年)に没しました。
この墓より200メートルほど離れた山中には花岡大明神があり、これは明治18年(1885年)に五郎左衛門を神として祭ったもので、毎年祭礼も行われています。
五郎左衛門の石工技術は、地元石工に受け継がれ今日に至っています。国指定重要文化財祇園橋や楠浦の眼鏡橋、長崎のオランダ坂の石畳をはじめ、各地の鳥居、石仏、墓碑など数多くの先人の作品が今も残っています。天草市の指定文化財となっています。

明治100年記念 石場地区市道開通記念碑:昭和44年5月、石場地区を1周する市道が完成。以前は里道で歩いて登っていましたが、現在は車で1周できるようになりました。建設の最中に岩が崩れ、下敷きになり1名が犠牲になりました。

花岡大明神石碑:下浦石工の元祖松室五郎左衛門を、神として祀った花岡大明神の石碑。

石場祇園様:石場峠の山中に祀られています。血塚島を望む景色も絶景スポットです。

深浦の船停泊地
天然の良港で、以前は干潟を利用した塩田があり、塩づくりが行われていました。

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